あなたの色は何色ですか。──誕生日の夜、その人の色でランタンが灯る町の話です。
第一章 灯りがある
その日、コハクは荷物のあいだに座っていた。麻袋と木箱と、紐で縛った郵便の束。座れるのはその隙間だけ。このバスは人を運ぶためのものではなく、荷を運ぶついでに人も乗せているようだった。
「終点まで行くのか?」
「終点に何があるの?」
「灯りがある」
運転手は前を向いたまま答える。年をとった豚の運転手で、荷札を読み上げるとき自分の名も一緒に言った。クワというらしい。
「灯りだけ?」
「灯りだけだ」
コハクは窓に額をつけた。道は森のなかを通っていて、木の幹が次から次へと後ろへ流れていく。窓ガラスは冷たく、額のかたちに曇った。
家を出てからひと月。延々と歩き、宿代の代わりに皿を洗い、薪を運び、朝になったらまた歩く。月明かりの下で夜風を避けるように丸くなって寝ることもあった。
それでも、コハクは何かが起きる場所へ行きたかった。
家を出た朝はまだ暗く、早起きの祖母がいつものように土間の竈で湯を沸かしていた。
コハクは寝床から起き上がると、土間の隅に置かれた道具箱の前にしゃがみこんだ。父の箱だ。蓋の留め具をパチンとはずし、いちばん上に置かれた小刀を取って懐に入れた。柄の木が父の手の形にすり減った使い込まれたものだ。
蓋を閉め、またパチンと金具を鳴らした。
祖母は始終を見ていたが、何も言わずに竈へ向き直り、コハクのために湯を汲み茶を淹れた。
冒険に出たい、と言うたびに父が笑い、母が笑った。コハクは笑われるたびに耳が熱くなり、その耳をどこへ持っていけばいいのか分からず、伏せた顔を覆う様に前に垂らした。三日前の晩もそうだった。
コハクは祖母の淹れた茶を飲んだ。熱い。舌が焼けた。
「行ってきます」
祖母は何も言わずに空になった椀を下げ、行き先は訊かなかった。止めもしなかった。
机には置き手紙を残してある。一行だけだ。行ってきます、と書いた。昨日が誕生日だった。
戸を開けた。外はまだ暗い。
振り返ると、祖母は竈の前に座って火を見ていた。こちらを見ていない。
戸を閉めた。
それからひと月歩いて広い町に着いた。この町は何もかもが早かった。荷車が走り、人が走り、言葉が走る。話しかけられても半分も聞き取れず、訊き返すときにはもう相手はいない。一日で耳が痛くなった。町のはずれのバス停で荷物を積んでいるこの車を見つけ、行き先を訊くと、運転手は「灯り坂」と言い、それから「灯りがある」と言った。それで乗った。
「客が降りるのは久しぶりだ」
クワが言った。
「みんな乗らないの?」
「乗らない。乗る用がない」
「じゃあ、このバスは何のために?」
「荷だ。手紙だ。それからたまに、お前みたいなのだ」
「さっき、久しぶりって言った」
「昔は客が乗った」
「なんで?」
「町が小さくなった」
クワはそれきり黙った。訊けば答え、訊かなければ何も言わない。そういう人らしい。コハクは麻袋に背を預けた。中身は豆で、豆の匂いが背中に染みてくる。
森の途中でバスが一度止まった。道が二つに分かれるところで、木の柱に箱が打ちつけてある。クワが降りて、郵便の束から封書を二通抜いて箱に入れ、箱の中にあった一通を束に足した。誰の家も見えない。
「誰が取りに来るの?」
「森の奥の炭焼きだ。週に一度、下りてくる」
「手紙が来るの、森に?」
「来る。人がいれば来る」
クワは運転席に戻り、バスはまた動く。人がいれば来る。コハクは自分の袋を見たが、手紙は入っていない。家へ出す言葉も持ち合わせていなかった。
バスがしばらく走ると森が切れ、坂が見えた。
道がまっすぐに山の斜面を登っていく。両側に家が並び、上へ行くほど並びはまばらになって、てっぺんの近くはもう森だ。日はほとんど落ちていた。
バスは坂の下で止まった。門のようなものがあり、その手前に小さな屋根つきの停留所がある。クワが降りて荷を降ろしはじめた。麻袋を屋根の下に積む。木箱をその隣に。郵便の束は屋根の柱に掛けた袋へ放り込む。
「これでいいの?」
「取りに来る」
「誰が?」
「用のある奴だ」
コハクは木箱をひとつ持ち上げようとした。重い。クワが横から取って屋根の下に置いた。
「手伝いは要らん。落とすと困る」
クワは運転席に戻った。
「次に戻るのは明日の朝だ。乗るならここにいろ」
「乗らない」
「そうか」
バスは向きを変え、来た道を戻っていく。音が次第に遠ざかり、聞こえなくなった。あとには虫の声と水が流れる音だけが残り、コハクは荷物の山の脇に立っていた。
肩にかけた袋をかけ直し、一歩踏み出して門をくぐった。石の橋があり、下を小川が流れていた。バスを降りた時から聞こえていた音の正体がこれだ。橋の石は昼の熱をまだ持っていて、足の裏に温かい。その場にしゃがみこむと、くすぐるような石の温もりを感じながら小川の水音にしばらく身を預けていた。
日が翳ってきているのに気づき立ち上がり、今日の宿を取らなくてはと急ぎ足で橋を渡ったそのとき、視界の端で最初の灯りがともった。
坂の左側のいちばん下の家。窓の内側に火が入る。誰かの手がその火に硝子の覆いを被せるのが見えた。次の家。その向かい。少し上の街灯。ひとつずつ。同時ではない。誰かが合図を出しているのでもない。上のほうで灯り、下のほうで灯り、また上で灯る。まばらに、順不同に、坂の両側に火が増えていく。
コハクは立ち止まってそれを見ていた。
道端に女の人がいた。街灯の下で脚立に乗っている。年をとったヤギの人だ。硝子の扉を開け、中の芯に火を移し、扉を閉める。火が硝子の中で落ち着くのを待ってから脚立を降りた。
「それ、あなたが全部点けるの?」
コハクが訊ねると、女の人は脚立を畳む手を止めてコハクを見る。上から下まで。
「自分の分は自分で。ここは灯り番の分。今日は私が預かってる」
「灯り番?」
「上にいる」
女の人は脚立を肩に担いで坂を下りていく。振り返らない。
コハクは坂を登った。家の窓にはひとつずつ火がある。窓の中の人はこちらを見ない。皿を並べている人。子どもの頭を拭いている人。それぞれの窓にそれぞれの火があって、それぞれの用がある。よその家の火は暖かそうで、暖かそうなだけだった。
坂の途中で荷を背負った男の人とすれ違った。木の束だ。男の人は会釈をして、そのまま下りていく。どこかの戸口で女の人が子どもの名を呼び、子どもが走って戻り、戸が閉まった。風が上から吹いてきて木の匂いがする。井戸があった。誰かが桶を置きっぱなしにしている。
家が密になり、道が少し平らになる。広場だ。
真ん中に大きな木があった。葉の茂った太い木だ。枝が四方に張り出している。その低い枝に、ランタンが六つ吊るされていた。
六つとも灯っていたが、ひとつだけ青い。深い、夜の始まりのような青。残りは火の色で、坂の灯りと変わらない。あの青だけが違う。木の下の地面が青く染まっている。
コハクは木に近づいて幹に手を当てた。太くてざらざらして、昼の熱が少し残っている。見上げたランタンは思ったより大きい。六つが並んで金具で枝から吊るされ、どれも正面に硝子の扉があり、火が硝子の中で揺れていた。
木の根元には誰が置いたのか、踏み台が置かれていた。
その青のなかに男の人がひとり立っていた。老いた牛の人。杖をついて、ただじっとランタンを見上げている。
コハクは近づいた。
「あれ、何?」
男の人は答えない。聞こえなかったのかもしれない。ただ見上げていたが、しばらくして口を開いた。
「今日は私の日だ」
それだけ言って、また黙った。
コハクはランタンを見上げた。青い。胸のなかで何かが音を立てる。何かが起きる場所へ行きたかった。ここにはこれがある。それは誰かの日だという。
土間で笑われた耳を、まだどこへも持っていけずにいた。
「僕の日は…」
思わず口をついて言葉が出たが、男の人はこちらを見ない。
広場の向かいに店があった。大きな木の正面で、川のほうに寄った側だ。二階建てで、一階の窓から火の色の灯りが漏れ、中から人の声がする。あたりを見渡してみたが、この坂でこれほど人の声が集まっているのはここだけのようだ。扉の上に木の看板が掛かっていて、「よすが」と彫ってある。字は深く、火の光で影ができていた。
コハクは扉を押して店内を見渡した。中は暖かく、明るく、豆を煎る匂いがする。長い台が奥で折れていて、その手前に卓が四つ、人が何人か座っている。天井からランタンが三つ吊るされ、卓には蝋燭。扉の音で客が二人こちらを見て、すぐ自分の椀に戻った。
奥に焙煎器がある。炭火の上に鉄の筒が載っていて、その前にラッコの若い男の人がいた。取っ手を握って筒をゆっくり回している。
その人の前まで行くと、コハクは考えるより先に口を開いた。
「働きます」
ラッコの人は手を止めない。
「何を?」
「何でも。皿洗いでも水汲みでも。その代わり、寝る場所が欲しい」
「今夜だけ?」
「分からない」
ラッコの人は焙煎器から目を上げてコハクを見た。上から下までゆっくり。足のところでほんの少し目が止まって、また上がった。
「俺はソイ」
「コハク」
「二階、空いてる」
それで決まった。
ソイは炭火を細くしてコハクに椀を渡した。温めたミルクに蜂蜜が入っている。椀をソイから受け取り、両手で持つ。手が思ったより冷えていたのが、それで分かった。
「どこから来た?」
ソイが訊いた。
「遠く」
「バスで?」
「バスの前は、歩いて」
「ひと月くらいか?」
「なんで分かるの?」
「足」
ソイは焙煎器に目を戻した。
「いくつだ」
「十四」
それ以上は訊かない。垂れた耳の先が土で汚れているのを、ソイは一度だけ見た。犬の子がひと月歩けばそうなる。
卓のほうから声がした。年をとった女の人だ。ソイに向かって「今日は牛のじいさんの日だね」と言い、ソイは焙煎器を回しながら「らしいな」と答える。女の人はコハクのほうを一度見て、椀に戻った。
「ここ、何か起きる?」
コハクは椀を持ったまま訊いた。ソイはしばらく考えた。
「起きないなあ」
「何も?」
「何も」
「じゃあ、あれは?」
コハクは窓の外を指した。広場の木が見える。青い灯りが葉の隙間から覗いている。
「あぁ、あれは起きる」
ソイは言った。
「誰かの誕生日に、その人の色で灯る。この町で起きるのは、あれだけだ」
「今日はあの牛の人の?」
「そう」
「明日は?」
「元の色に戻る。琥珀色に」
「コハク色?」
コハクがそう言ったが、ソイは黙った。
少しの沈黙の気まずさを誤魔化すように、コハクはミルクを飲んだ。卓の客が立ち、硬貨を卓に置いて出ていった。ソイは見もしないで「おう」と言う。
「僕のは」
今度は聞こえる相手がいる。ソイは少し考えてから答えた。
「棚に板が無いだろうな」
「棚?」
「板を差し替えて色を出す。板は上の工房の棚にある。町の人の分だけ」
「僕の分は」
「無い」
今度は迷いなくハッキリと言った。
コハクは椀を置いた。
「じゃあ、要る」
思いがけない返答にソイは少し笑った。急がない笑い方だ。
「二階は階段の上。布団はある。朝は水を汲んでもらう」
「分かった」
コハクは階段に足をかけて、止めた。
「板って、どんな?」
「見てくればいい。まだ点いてる」
コハクは店を出た。
広場は暗く、木の下だけが青い。牛の人はもういない。踏み台が木の根元にあるのを見つけ、それをランタンの下まで引きずった。重い木の台だ。乗ってみると、手を伸ばせば届く高さに硝子の扉があった。
近くで見ると、扉の内側に薄いものが立っている。硝子の板だ。火の手前の細い溝に嵌まって立っている。青い。火はその後ろで何の色でもなく燃えていた。火が板を通って青になり、扉を通って外へ出る。それだけのことだ。それだけのことが木の下の地面を青くしていた。
扉の縁に指を触れると熱く、すぐ離した。
「牛のじいさんの色だ」
下から声がした。ランタンを提げた男の人が広場を横切っていくところだ。こちらを見上げて言い、そのまま坂を下りていった。止めない。降りろとも言わない。
コハクは踏み台を降り、元の場所に戻した。
店に戻るとソイが炭火を落としていた。
「見てきたか?」
「見た。踏み台に乗った」
ソイは笑わなかった。怒りもしない。焙煎器の口を閉めて卓の椀を集めた。
「明日の朝の仕事を、いま教える」
ソイは店の隅の甕を指した。板の蓋が乗った大きな素焼きの甕。
「井戸は広場の隅。桶はそこ。甕がいっぱいになるまで。それから皿。皿は裏の桶で洗って、そこの棚に伏せる」
「分かった」
「豆には触るな。まだ」
「まだ?」
「まだだ」
ソイは椀を裏へ運んだ。コハクは甕の蓋を持ち上げてみる。中は空に近く、水の匂いがした。明日の朝、これを満たす。この町でやる最初の仕事だ。頼まれた仕事があるのは悪くない。
コハクは階段を登った。小さな部屋だ。寝台と机と窓。窓を開けると広場の木が正面に見えた。青いランタンがまだ灯っている。さっき指で触った扉が、ここからだと小さく見えた。
コハクは窓辺に座ってそれを見ていた。
坂の上のほうから弦を弾く音がした。知らない曲だ。ゆっくりで、途中で止まって、また始まる。窓の火のひとつがそれに合わせて揺れているように見えた。音はしばらく続いて、やんだ。どの家から聞こえてきたのか、誰が弾いていたのかは分からなかった。
自分の袋を開けた。着替えと、家から持ってきた小刀と、いくらかの硬貨。それだけ。手紙も、板も無い。
坂の家々の火がひとつずつ消え、木のランタンの青が最後まで残った。
明日はコハク色に戻るとソイは言った。板を差し替えるのだと。誰かの板が棚にあって、誰かがそれを差し替える。町の人の分だけ。
「コハク色」
ソイが言っていた言葉を思い出し、声に出してみた。ソイはないと言ったが、コハク色に戻るとも言った。
自分の色はあるのか、ないのか、どういうことなのか分からなかったが、明日になればわかる。
コハクは窓を開けたまま寝台に転がった。今日は青い光が天井にうっすらと映っている。
何かが起きる場所だった。
明日も点く。自分が何もしなくても、点く。
第二章 棚に、無い
朝、木のランタンは琥珀色だった。
「コハク色」と、昨夜のように声に出してみる。見上げても、胸は鳴らなかった。
ソイの言ったとおりだ。コハクは水を汲みながら何度も広場を振り返る。昨夜の青は跡形もなく、琥珀色は火の色に近くて、他の灯りと見分けがつきにくい。あれが元の色なのだと、見るたびに思い直す。
井戸は広場の隅にある。桶を下ろし、引き上げ、店の甕まで運ぶ。それを何度もやる。桶の縄は濡れると重くなって手のひらに食い込んだ。井戸には人が入れ替わりに来る。籠を提げた女の人がコハクの隣で桶を下ろし、何も言わずに汲んで、何も言わずに去った。次に来た男の人はコハクの顔を見て「ソイのところの」と言う。もう知られている。
「バスで来たんだって」
「うん」
「牛のじいさんの日に来た。いい日に来たな」
男の人は桶を担いで行ってしまった。何がいい日なのか、訊く前にいなくなる。
甕がいっぱいになると、ソイは「昼までいい」と言った。
コハクは坂を登った。上の工房。棚。板。昨夜からその三つが頭のなかで鳴っている。
広場を出るとき、大きな木の根元に花壇があるのに気づいた。ポポが花に水をやっている。コハクを見て、じょうろを持ったまま首を傾げた。コハクは「工房は?」と訊く。ポポはじょうろで坂の上を指した。
「上の井戸の、斜め向かい。川に寄った側」
「わたし、ポポ」
坂は広場から上へ行くほど家がまばらになる。畑が段になって斜面に張りつき、鶏の声がした。小さな広場があって井戸がある。その斜め向かい、川に寄った側。
大きな小屋だ。隣にもうひとつ、屋根の低い小屋が軒を接していて、大きいほうの扉は開いていた。
工房の中には、油と金物の匂いが立ち込めていた。窓から入る光のなかにランタンがいくつも吊るされている。作りかけのもの、直しかけのもの、できあがったもの。作業台には金物の枠と透明の硝子の切れ端と細い針金が散っていて、床には硝子の破片が落ちて光を拾っている。足の裏に刺さりそうで、コハクは踏む場所を選んで歩いた。
奥の壁に棚があった。一面。
板が立てかけてある。硝子の板だ。どれも同じ大きさで、厚さもほとんど変わらない。色が違う。赤があり、青があり、緑と黄と茶と灰と藤の色がある。同じ赤でも隣とは違う赤だ。古いものは端が曇り、新しいものは光っている。窓の光が棚に当たって床に色の斑を落としていた。
コハクは棚の前に立った。手を伸ばす。
「触っちゃ」
声がして、コハクは手を止めた。リスの男の子だ。コハクと同じくらいの年に見える。腰に道具の入った袋と油差しを提げ、布で一枚の板を拭いていた。
「……いいです。割らなければ」
男の子は言い直した。
コハクはいちばん手前の板を触った。冷たくて、指の跡がつく。慌てて袖で拭くと余計に曇って、男の子が自分の布を差し出した。乾いた布で拭くと曇りは消える。
「これ、誰の?」
「シイさん。パン屋の」
指が、もう隣の板の縁に掛かっている。
「その隣は?」
「モリさん。森の」
「これは?」
「それは、僕の」
男の子は拭いていた板を少し持ち上げた。黄色。薄い、蜂蜜のような黄だ。
「僕、ホノ。ここの見習い」
「コハク」
「知ってます。昨日バスで来た」
もう知られている。
「僕の分は、どれ?」
コハクは訊いた。ホノは困った顔をする。
「無いです」
「無いって、どこにも?」
「棚にあるのが全部です。町の人の分だけ」
コハクは棚を端から端まで見た。もう一度見る。無いものは何度見ても無い。
家の棚を思い出した。祖母の茶碗が、上から二段目に伏せてある。欠けたところに指が引っかかる茶碗。あれは祖母がいつも取る茶碗だった。その隣も、その隣も、誰かがいつも取る。
ここでも同じだ、と思いかけて、やめた。家の棚は、誰の分と決まっていたわけではない。この棚は決まっている。決まっていて、無い。
ホノがまだ何か言っている。声より先に、耳の熱さが戻ってきた。歩いていたひと月のあいだ、一度も来なかったものだ。
コハクは棚に手を伸ばした。空いているところではなく、並んでいるほうへ。下の段の、いちばん手前。指が一枚に掛かって、抜けた。思ったより軽い。両手で受けた。
「出さないで」
ホノの声が大きくなった。初めてだった。
ホノは板を取って、布で拭いて、元の場所に戻す。下の段を端から指で数えて、数えたところへ戻した。
「割らなければいいって」
「触るのと、出すのは、違います」
ホノは布を袋にしまった。さっきは差し出した布だ。今度は差し出さなかった。
「並びが変わると、夜に点ける人が間違えます。暗いところで、手で数えるので」
手の中に、まだ板の重さが残っていた。自分の分ではない重さだった。
「昨日の青いのは?」
「牛のおじいさんの。上の段の、左から二枚目」
ホノが指した。深い青の板が立っている。昨夜、木の下で地面を染めていた色だ。今朝ホノが木のランタンから抜いてここへ戻したのだという。
「差し替えるのは、ホノ?」
「僕の仕事です。見習いの」
「点けるのは?」
「クルミ。灯り番見習いの。夕方に芯を長くします。夜のあいだ消えないように」
足の裏に硝子の破片が当たった。踏む場所を一歩ずらす。
「誰が作ったの、これ?」
「昔からあります」
「昔って、誰が?」
「知りません。僕が来たときにはありました」
「じゃあ、誰が色を決めるの?」
「それは」
ホノはそこで口を閉じた。答えがないのではなく、答えを持っていない顔だ。
「フウさんに訊いてください」
「フウさん?」
「灯り番です。奥に」
工房の奥に小さな戸口がある。コハクはためらわずにそこをくぐった。
小さな部屋だ。机がひとつ。机の上に油の壺と帳面と細い筆。壁に油の甕が並んでいて、それぞれに木の札が下がっている。フクロウの年をとった人が座っていた。コハクを見て、まばたきをひとつ。
「フウさん」
「はい」
「僕、コハク。僕の板が棚に無い」
「そうでしょう」
「誰が色を決めるの?」
フウは帳面を閉じた。
「知りません」
耳の熱が、まだ引いていない。
「知らないって。あなたが灯り番なのに」
「灯り番は色を決める役ではありません。油を配り、街灯を直し、棚を預かるだけです」
「じゃあ、誰が?」
「知りません」
同じ答えだった。二度目も一度目と同じ声だ。
コハクは帳面を見た。
「それ、何?」
「棚の帳面です。誰の板がいつ棚に入ったか。誰が磨いたか。誰の日に、どの色が灯ったか」
「見ていい?」
フウはしばらく黙った。それから帳面をコハクのほうへ向ける。
古い帳面だ。ひとつの手で書かれたものではない。太い字があり、細い字があり、震えた字があり、丸い字がある。何十年ぶんかは分からない。数えなかった。頁の端は指の脂で黒くなっていて、めくるたびに埃の匂いがした。
名前があった。色があった。日付があった。昨日の日付の隣に牛の人の名と青の字。字はホノのものらしく丸い。
コハクは頁を戻した。戻して、戻して、字がだんだん薄くなって読めなくなるところまで戻す。読めない字の下に、それでも色の名だけは読めた。
コハクの名は無い。
「僕が書いていい?」
フウはまばたきをした。
「駄目とは、書いてありません」
「書いていいってこと?」
「駄目とは、書いてありません」
同じことを二度言った。
コハクは筆を取ろうとして、止めた。
色が無い。書く色が無い。棚に板が無いのと同じだ。名前だけ書いても何も灯らない。
筆を置いた。
「板を、作る」
コハクは言った。
「僕の分を、僕が作る。それも駄目とは書いてない」
「書いてありません」
フウは言った。それからはじめて、少し長く息を吐く。
「硝子は、この町では作れません」
「作れない?」
「作れる人がいない。工房の硝子も、外から来ます」
「外?」
「隣町から、バスで」
コハクは朝の道を思い出した。麻袋と木箱のあいだ。荷を運ぶバス。
「いつ来るの?」
「春に頼んで、春に来ます。一年に一度」
「春」
いまは五月の半ば。春は終わりかけている。
コハクは戸口に戻った。
ホノがまだ板を拭いている。その後ろにもう一人。小さなヤマネの女の子だ。ホノよりずっと小さい。片手に小さなランタンを提げていて、昼間なのに灯っている。
「クルミ」
女の子は自分の名を言って、コハクを見上げた。
「あなたの板は無い」
「知ってる」
「作るの?」
「作る」
「できないよ」
短い。意地悪ではない。ホノとは違う顔で同じ事実を言った。
「硝子、無いもん」
クルミは言い捨てて外へ出ていった。ランタンを提げたまま坂を下りていく。街灯の芯を見て回るのだと、あとでホノが言った。
コハクは棚の前に戻った。
赤と青と緑と黄と茶と灰と藤。板と板のあいだに隙間がある。棚の右の端に、ひとつ、板の幅ぶんくらい何も立っていない場所があった。木の棚板がそこだけ見えている。
そこを見た。
「ここ」
「え」
「僕の分はここに置く」
ホノは何も言わなかった。板を拭く手が少し止まる。
コハクは作業台のほうへ行った。透明の硝子の切れ端を一枚つまみ上げる。薄くて、縁が鋭くて、指の腹に食い込んだ。
「これは?」
「ランタンの窓の硝子です。切った余り」
「これを色にするには?」
「できません。透明は透明です。色は最初から、硝子に入ってるんです」
コハクは切れ端を光にかざした。何の色もつかない。作業台に戻した。
「コハクさん」
「さん、要らない」
「コハク。灯り、持ってないでしょう?」
「持ってない」
「夜、どうしてるんですか?」
「よすがの窓から、広場の木を見てる」
ホノは工房の隅へ行って、古いランタンをひとつ持ってきた。大きい。手に提げるやつだ。金具はくすんで、硝子には細かい傷がある。
「使い古しです。僕が作ったんじゃないです。工房にあったやつで」
「くれるの?」
「灯りは自分の分は自分で持つんです。この町では」
コハクは受け取った。重い。
「油は?」
「フウさんが配ります。家の分は自分で」
ホノは小さな壺に油を分けてくれた。それから扉を開けて芯の出し方を見せる。芯は金具のねじで上下する。出しすぎると煤が出て、引っ込めすぎると消える。
「やってみて」
コハクはねじを回した。回しすぎた。芯が長く飛び出す。戻す。今度は引っ込みすぎ。三度目で、ホノの指の幅と同じくらいのところに止まった。
「それくらい」
「覚えた」
「ありがとう」
「まだまだ修行中なので」
ホノはなぜかそう言った。
コハクはランタンを提げて工房を出た。
坂を下りる。途中で、犬の若い男の人が道端に座って何かを描いていた。ノートを膝に置いている。コハクが通っても顔を上げない。描いていたのは坂だ。井戸のところで年をとった男の人が桶を洗っていて、コハクのランタンを見て「ホノのか?」と言った。
「工房のやつだって」
「工房のか?」
男の人は桶を洗う手を止めない。桶の底を指の腹でこすっている。
「なら油は自分で買え。ホノに甘えるな。あいつは頼まれると断れん」
「買う」
「そうしろ」
男の人は桶を伏せて次の桶を取った。
広場の木の根元で、ポポがまだ花に水をやっていた。コハクの手のランタンを見て、今度は首を傾げなかった。
よすがに戻るとソイが焙煎器の前にいた。
「灯り、もらったのか?」
「ホノが」
「そうか」
「ソイ。僕の板は僕が作る」
ソイは焙煎器を回す手を止めない。
「硝子、無いぞ」
「知ってる」
「隣町は慌ただしい」
「知ってる。通ってきた」
ソイは少しだけ笑った。
「じゃあ、昼の皿だ」
コハクは皿を洗った。
午後、店が空いた。コハクはランタンを提げて坂を下りる。ホノにもらった灯りを昼のうちに一度提げて歩いてみたかった。
坂の下のほうで、クルミの小さな灯りが街灯の脇に止まっている。クルミは脚立に乗って街灯の硝子の扉を開けていた。中の芯を指でつまみ、油の壺を覗き、扉を閉める。脚立を降りて次の街灯まで歩く。また乗る。その繰り返し。
コハクは追いついた。
「何してるの?」
「芯を見てる。油を見てる。硝子を見てる」
「毎日?」
「三日に一度。上から下まで全部。何本あるかは数えたことない」
クルミは脚立を担いで次の街灯へ行く。担ぐと脚立のほうがクルミより大きい。コハクは脚立の反対の端を持った。肩が軽くなったのが分かったらしく、クルミの歩く速さが少し上がる。離せとは言わなかった。
次の街灯で、クルミが脚立に乗る前にコハクが乗った。
「見せて」
「触っちゃだめ」
「見るだけ」
硝子の扉を開けた。中に芯がある。黒く焦げた先がほんの少し出ている。油の壺は半分ほど減って、硝子の内側は煤で薄く曇っていた。
「曇ってる」
「拭くのはフウさん。芯はわたし。油はホノが運ぶ」
「三人で?」
「三人で。町の分だから」
「町の分?」
「誰のでもない。街灯と、門と、広場の木のと。あれは町の分。家のは家の分」
コハクは脚立を降りた。クルミが乗り直して、芯を指でつまんで少しだけ出す。扉を閉めた。
街灯の脇の家から女の人が出てきた。手に空の壺。
「クルミちゃん、うちの油がもう」
「明日ホノが持ってく」
「頼むよ。夜中に切れると、うちの人が転ぶんだ」
女の人は壺を戸口に置いて中に戻った。コハクを見なかった。荷車に野菜を積んだ男の人が脚立を避けて坂を下りていき、車輪が石を噛む音がしばらく続く。学びの小屋のほうから子どもが二人走ってきて、コハクのランタンを見て、何か言って、笑って、走っていった。
「あなたも、家の分」
クルミが言った。
「家、無いけど」
「よすがの二階。あそこが家の分」
クルミは脚立を担いで次の街灯へ歩いていった。コハクはそれ以上ついていかない。芯を見て、油を見て、硝子を見る。三日に一度、全部。それが灯り番の分らしい。誰のでもない町の分を三人で見ている。
日が落ちる前に、コハクは木の下に行った。
クルミが来るのを待つ。琥珀色の日でも夕方には芯を長くする。夜のあいだ消えないように。それを見たかった。
クルミは坂を下りてきて、コハクを見て、何も言わずに踏み台に乗った。つま先立ちで、六つの扉を順に開けて、自分のランタンの火を芯に移していく。芯を少し引き出す。火が大きくなる。扉を閉めた。
「フウさん、見ててね」
クルミが上に向かって言った。フウはいない。
「誰に言ってるの?」
「フウさん」
「いないよ」
「いなくても言う。仕事だから」
クルミは踏み台を降りた。
「僕もやっていい?」
「だめ。町の分」
「町の分は、誰がやってもいいんじゃないの?」
「灯り番の見習いがやる。わたし」
クルミはランタンを持ち直して坂を登っていった。コハクは木の下に残る。琥珀色の火が、さっきより大きく揺れている。誰の日でもない夜の火だ。それでも誰かが毎晩、芯を長くしている。
コハクは踏み台に足を掛けた。誰も見ていない。乗って、扉を開ければ、手は届く。
板がきしんだ。上で火が揺れて、硝子の中で一度、細くなった。
消えかけた。
コハクは足を下ろした。火はもとに戻る。戻ったが、戻るまでのあいだ、木の下は暗かった。暗くしたのは自分だ。
誰も出てこない。誰も見ていない。見ていなくても、暗くはなった。
夜、ランタンに油を入れた。ホノが分けてくれた分だ。芯を出す。ホノの指の幅。火を移すと、硝子の傷が光のなかで細い線になった。
窓辺に置いた。
火の手前に、両手がある。昼に板を受けた手だ。触るのと、出すのは、違います。
正面に広場の木。琥珀色のランタン。
工房の棚の右の端。板の幅ぶんの空いた場所。木の棚板の色。
そこに置く。そう決めた。硝子は無い。作れる人もいない。春は終わりかけている。
「僕の分は」
言い慣れてきた。
